Share

第38話 晩餐会の椅子②

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-06-26 06:01:43
 私は指を離した。

「では、今日は開けません」

 宮野さんが、ほんのわずかに息を吐いた。

 箱の薄紙が、指を離したあとも少しだけ揺れていた。

「ただ、捨てないでください」

「……捨てません」

「それと」

 私は律を見た。

「届かなかったものなら、今さら勝手に渡されたことにしないでください」

 律の目が、静かに細くなる。

「渡したことにはしません」

 それ以上の言葉はなかった。けれど、律が箱から手を離すまで、ほんの少し時間がかかった。

 その間だけで、十分だった。

 箱は棚の奥へ戻された。

 蓋が閉まる音は、小さかった。けれど、その音は晩餐会へ向かう車の中まで、耳の奥に残っていた。

 会場のホテルは、榊グループが保有する施設の一つだと相良さんが説明してくれた。

 車寄せには、黒い車が何台も並んでいる。ドアマンが一台ごとに頭を下げ、招待客は濡れてもいない上着の襟を整えながら中へ入っていく。

 私は、車内で膝の上に置いた手を一度ほどいた。

 深い青のドレスは、座っていると裾の重さが分かる。胸元は苦しくない。靴も合っている。宮野さんが最後まで調整してくれた靴
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第188話 私は本物なんですよね

     二人とも、私が知っている両親の形をしていなかった。 古い時計の音が、沈みかけた会話の隙間を埋めていた。「帰ります」 私が言うと、琴美さんの肩が小さく震えた。「栞」 呼ばれた。 私は足を止めたが、振り返らなかった。「……寒いから、気をつけて」 余計な言葉は続かなかった。 謝罪でも、引き止めでもない。 昔なら当たり前だった言葉が、今はずいぶん遠く聞こえた。 私は振り返らないまま、小さく頷いた。 そのまま外へ出た。 車に乗る直前、律が膝掛けを差し出した。「手が冷えています。使いますか」 私は、その布を見た。 以前なら、反射的に断っていたかもしれない。 でも今夜は、手が冷えていた。「……借ります」「榊邸へ戻るまで、話さなくていいので、隣にいてください」 律は短く頷き、膝掛けの端を私が持ちやすい向きへ直した。それ以上は何も決めず、車が門を出るまで同じ距離にいた。 受け取ると、律はそれ以上何も言わなかった。 車が如月本家を離れる。 塀の向こうで、灯りが小さく遠ざかっていった。 私は膝掛けを膝に広げながら、窓の外を見た。「未央さんに、今すぐ確認するべきでしょうか」 自分で言ってから、違うと思った。 未央に直接ぶつければ、彼女はきっと泣く。怒る。被害者の顔を作る。その顔に、三年前の私は何度も負けた。 律は少しだけ考えた。「今、会う必要はないと思います」「私も、会いたくありません」 自分の返事の早さに、少し驚いた。「では、書類から確認しましょう」「でも、逃げられたら」「連絡や移動の記録は追えます」 淡々とした言い方だった。 私は膝掛けの端を握った。「明日、先に書類を見ます」 私は言った。「未央さんに聞くのは、そのあとで」「そうしましょう」

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第187話 この場にいない未央

     自分で言って、妙な感覚がした。 ざまあみろとは思わなかった。 楽にもならなかった。 未央が偽者でも、私の三年が戻るわけじゃない。床はきれいに磨かれていた。けれど部屋の奥から流れてくる空気は、どこか古かった。「可能性の話です」 高瀬さんが答える。「未央様が如月家の実子である可能性も、ないとは言えません。ただ、この資料だけで朝霧様を偽令嬢と断定し、生活基盤を奪うほどの根拠があったとは言いにくい」 隆一さんの顔が、暗く沈んだ。「騙されたのか」 かすれた声だった。 その一言に、琴美さんがゆっくり顔を上げる。「騙された?」 彼女は、小さく笑った。「あなた、今、それを言うの」 隆一さんが黙る。「騙されたのは、栞よ」 琴美さんが、私の方を見ずに私の名をそう口にしたのは、初めてだった。 爪先に、知らないうちに力が入っていた。 優しさとして受け取るには遅すぎる。 でも、何も感じないほど遠くもなかった。「未央さんも、使われてたのかもしれません」 私は言った。 声が思ったより落ち着いていた。「でも、それで三年前のことまで……仕方なかったとは思えません」 律は短く頷いた。「ええ」 律はそれ以上言わなかった。 私は青いファイルの送付状を見下ろした。 九条康生秘書室。 あの穏やかな笑みを思い出す。 葬儀の席で私に近づき、三年前のことを古い噂のように静かな声で話した男。 彼は、何をどこまで知っていたのだろう。 高瀬さんがファイルを閉じる。「このファイルも、同様に保全対象とします。原本性の確認、作成経路、差出人、検査機関への照会が必要です」「照会できるんですか」「個人情報なので、すべては無理です。ただ、弁護士として確認できる範囲があります。報告番号の形式、機関の存在、当時の書式の一般的な真偽などです。本人の同意が取れれば、踏み込めます」 

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第186話 泣く未央に負けた家族

    「所有者の同意が必要なら、隆一さんの同意を。拒否するなら、拒否した事実を記録してください」 隆一さんは、しばらく私を睨んでいた。 金庫の前には、長く使われていない埃の跡が残っていた。 だが、琴美さんが動いた。「私が開けます」「お前に権限はない」「この家に、二十四年住んでいます」 琴美さんは、細い声でそう言った。「書斎の金庫番号も、あなたが忘れるたびに私が開けてた。中身に触れてはいけないと言われてたから触れなかっただけ」 隆一さんは、何も言えなかった。 書斎に入る時、私は足を止めた。 昔、ここには勝手に入るなと言われていた。扉の向こうは父の仕事場で、如月家の大事なものがある場所だからと。 今、その大事なものが、私を偽者にした紙かもしれない。 琴美さんが本棚横の金庫の前に膝をついた。震える指で番号を押す。二度目で、重い扉が小さく鳴った。 中には、通帳、印鑑ケース、古い株券らしき封筒、そして濃い青色のファイルがあった。 表紙には、手書きで「未央」とだけ書かれている。 琴美さんは、表紙の名前を見たまま動かなかった。 高瀬さんが撮影を済ませ、状態を確認してから開く。 最初に出てきたのは、三年前の日付が入った調査報告書だった。 如月未央氏に関する身元照会。 親子関係確認済。 そう大きく書かれている。 ただ、ページをめくるたびに、違和感が増えていった。 正式な鑑定機関名はある。だが、検体の採取立会人の欄が空白だった。採取日時の横には手書きの訂正印があり、その印影は隆一さんのものではない。 添付されているはずの検体管理票は、コピーのコピーのように薄く、端が切れている。 そして、報告書の最後に添えられた送付状の差出人欄に、見覚えのある名前があった。 九条康生秘書室。 送付状の差出人を、私は二度読み直した。「九条」 琴美さんが、呟いた。 隆一さんは目を逸らした。 高瀬さんが、表情を変えずにページを確認する。

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第185話 未央の正体にも穴がある

     琴美さんの唇が、最後の言葉を落とす。「未央は、どこの子なの」 その問いを、琴美さんはもう一度口にした。 琴美さんの声は、さっきよりも低かった。 廊下の柱時計が、一度だけ時を打った。 泣きながら縋る声ではない。自分が触れてはいけない場所へ、ついに指を伸ばしてしまった人の声だった。 隆一さんは答えなかった。 その沈黙だけで、廊下の空気が同じ答えに傾いた気がした。 この人は、知らないのではない。 言いたくないのだ。「お父様」 昔の呼び方が、口から出そうになって止まった。 私は唇を噛み、言い直す。「隆一さん。三年前、未央を実子だと判断した書類は、ここにありますか」 隆一さんの眉が、かすかに動いた。「お前には関係ない」「ありますか」「関係ないと言ってる」「関係あります」 声を上げたつもりはなかった。 声は大きくないのに、皆が黙った。「その書類で、私は偽者にされました」 隆一さんの目が揺れる。「私が如月家を追い出された理由に、その書類が使われたのなら、関係ないとは言わせません」 高瀬さんが一歩前へ出る。「朝霧様の名誉や、学籍、婚約解消に関わる資料なら確認します。ただし、未央様ご本人の個人情報も含みます。扱いは慎重にします」「個人情報」 隆一さんが吐き捨てるように言った。「随分と都合がいいな。こちらの家の事情を荒らしておいて」「荒らしたのは誰ですか」 私はすぐに返した。 隆一さんが黙る。「三年前、私は大学にも戻れなくなりました。仕事も、住む場所も」 言葉を選ぶ余裕がなくなっていた。「未央さんのことを勝手に出せとは言ってません。でも、あの書類まで隠されたら……私はまた、何も聞けないままです」 言い終えて、握っていた手を開いた。爪の跡が薄く残っていた。 琴美さんが、ゆっくりと振り返った。「書斎の金庫」

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第184話 未央はどこの子なの

     琴美さんの目から、涙が落ちた。 白い廊下に、小さな雫がひとつ落ちる。 涙は、磨かれた床に小さな跡を残した。 それを見ても、私は動かなかった。 昔なら、駆け寄っていたと思う。お母様、大丈夫ですかと声をかけて、ハンカチを差し出していたと思う。 けれど、今の私の手は、膝の横で握られたままだった。「お母様って」 琴美さんが、かすれた声で言った。「もう、呼んでくれないのね」 古い打ち身のような痛みが、遅れて戻ってきた。 その痛みが残っていることに、自分で少し腹が立った。「呼べません」 短く答えた。 琴美さんが、両手で口元を覆った。小さな嗚咽が漏れる。 隆一さんが一歩前に出た。「栞、そこまで言う必要は」「言う必要があります」 律の声だった。 低く、廊下の奥まで届く声。 私は思わず横を見た。 律は車椅子の肘掛けに手を置き、こちらではなく隆一さんを見ていた。「呼び方まで、如月家が決める話じゃないでしょう」「榊さん。これは如月家の」「朝霧さんの話です」 律の声は荒くなかった。けれど、隆一さんはそこで口を閉じた。 所有物。 その言葉に、隆一さんの顔が歪む。 高瀬さんが、紙を透明の保護袋に入れた。袋の口を閉じる音が、やけに大きく聞こえた。「琴美様。この資料については、先ほどと同じく、現物の状態を記録したうえで一時保全します。正式な照会には時間がかかります。現時点で誰かに断定的な説明を求めるのは危険です」「時間」 琴美さんが、小さく笑った。 笑い声には、何の温度もなかった。「二十四年もあったのに」 誰も返せなかった。 彼女は壁に手をつき、廊下に掛けられた古い家族写真を見上げた。 私が七歳の時の写真だ。 如月家の庭で撮ったもの。私の隣に琴美さん、反対側に隆一さんがいて、静江さんが後ろで笑っている。 写真の中の私は、少し緊張していた。 そ

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第183話 泣いていなかった赤ん坊

     順番も、言葉も、ばらばらだった。けれど、そのばらばらさが、作り話ではないことを示していた。 廊下へ戻る靴音だけが響いた。母子手帳の紙から、古いインクの匂いがした。 母子手帳の角は何度も開かれたように柔らかくなり、ページの間には古い予防接種の控えが挟まっている。そこには、私が確かにこの家で育った痕跡があった。 なのに、その痕跡の始まりだけが、誰かの手で入れ替えられているかもしれない。 私は自分の赤ん坊の足形を見ているのに、他人の遺留品を見せられているように思えた。「それも、保全対象になります」 高瀬さんは書類を一枚だけ抜き出し、淡々と言った。「ただし、朝霧様ご自身に関する資料でもあります。本人の意思を確認します」 全員の視線が、私に向いた。 母子手帳。 足形。 生まれた日の記録。 本来なら、自分の始まりを知るためのもののはずだった。それが今は、誰かの嘘を暴くための証拠になろうとしている。 私は母子手帳から目を上げた。「撮影はしてください」 声は小さかった。「でも、今ここで、それを私が誰かの子だった証拠みたいに扱わないでください」 琴美さんの指が、足形の紙を強く握る。「あなたのものよ」「だからです」 私は彼女を見た。「私のものだから、今すぐ誰かの罪の穴埋めに使われたくありません」 足形の紙を見たまま、言葉を続けた。 生まれた日の私まで、誰かの弁解に使われるのは嫌だった。「じゃあ、どうして」 私はやっと声を出した。 思ったより小さな声だった。 琴美さんの言葉が止まる。「どうして三年前、私の話を聞いてくれなかったんですか」 廊下の空気が、少し冷えた。 琴美さんの目が揺れる。「それは……未央が怪我をして、あなたが」「私が押したと、未央が言ったからですか」「……」「写真も、資料も、全部私がやったように見えたから?」

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第4話 黒い仮面の当主が、私を見ていた

    「律様、お時間です」  低い声が、扉の外から響いた。  広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。  机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。  その一番上に、朝霧栞の写真があった。  コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。  律は写真の端に指を置いた。  三年前の豪雨の夜。  高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。  名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。  ただ傘を差し出した。  そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第3話 三年前に終わった話

     司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。  三年前より少し痩せたように見える。  けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。  何も変わっていない。  そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」  呼ばれた名が、廊下に落ちる。  私は足を止めなかった。 「話があるんだ」  司が一歩踏み出す。  その指先が、私の袖をかすめた。  反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」  司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第2話 家を救うため、私を差し出すそうです

     病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。  ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。  頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」  名前を呼ぶと、まぶたが震えた。  ゆっくり開いた目が、私を捉える。  濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。  骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。  私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。  驚くほど冷たい。  それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り

  • 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ   第1話 捨てた父が、深夜のレジに立つ

     午前二時過ぎ。  私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」  自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。  夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。  如月隆一。  如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。  三年前、私を家から追い出した男だ。  私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status